あの日のネルドリップ 後編
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【あの日のネルドリップ 後編】
席はカウンター4席、2人がけのテーブル席が3席ほど。店内は薄暗く暖色の照明が雰囲気を醸し出している。
奥さんらしき女性からメニューについて説明を受ける。説明を聞きながらチラリとマスターに目を向けるとドリップに全神経を集中している。ポタ、ポタ、と一滴ずつヤカンの口から注いでいる。カッコ良い。そのマスターの仕草に引き込まれるように見入っていてメニューの説明はうわの空。ブレンドの説明を聞いてなくて結局メニューの1番上にあったブレンドを注文した。
席は半分ぐらい埋まっているけどしんとしている。マスターの作り出す雰囲気からなのか大声で喋る人もいなくみんな静かに自分の時間を過ごしている。田舎町にある一軒のカフェ。そこは異次元空間。店から出たら透析に行かなければ。透析に行きたくないと思ったのはこの時が初めてだった。
それからは透析までの時間潰しに通うようになった。座るのはカウンターの左から2番目の席。そこがマスターのドリップがよく見える。丸い布の中に挽いた豆を入れる。布を揺らして豆を均一にしたらお湯が入ったヤカンを傾けて一滴一滴茶色い粉へ落としていく。あれはどうやってるんだろう。かなりの訓練をしたんだろうか。聞いてみたい。コーヒーについていろいろ聞いてみたい。でも真剣に作業している人を邪魔するのは野暮か…。そう思うといつもおいそれと話しかけられなかった。
透析を終えて家へと帰る。「また今日もあそこの喫茶店行ってきたの?」母親がそう聞いて返事を返すのが通例となっていた。いろんなカフェ、喫茶店へと足を運んだけれど足しげく通ったのはHappy TREEだけだった。いつもの何気ない会話から母親は言った。
「いつかはこっちに帰ってくるんだべ?だったら透析しながら喫茶店やればいいべ」
どこかで喫茶店をやってみたいとは思っていた。でも透析をしながら飲食店なんて…という想いからどこか踏ん切りがつかなかったけど。
「やってみたい!!」
母親の一言で確信に変わった。僕は将来喫茶店のマスターになる!
次の日僕は東京へ帰る切符を取りに行った。自分がやることは決めた。あとは動くだけ。
1週間後。東京へ帰ってきた僕は部屋から自転車で10分ほどのカフェでアルバイトを始めた。アルバイトをきっかけにもっとコーヒーを知りたくなりカフェ巡り、セミナー、展示会にも通った。良いコーヒー、悪いコーヒー。美味しいコーヒー、美味しくないコーヒー。いろんなコーヒーを見てきた。必死になって動いてるうちにカフェの運営もしたし間借り営業もした。自分で焙煎をするようにもなったし、いつか自分の店も出すだろう。でも1つだけやり残したこと。
あの日コーヒーの世界に飛び込むきっかけをくれたマスターにまだ僕のコーヒーを飲んでもらってない。というより話してもいない。たったの一言も。
いつかお礼を言いに行かなきゃ。急にそんなお礼を言われたらびっくりするか。もしかしたらこのままでも良いのかもしれない。実家に帰ったらこっそり飲みに行って勉強させて頂きます。カウンターの左から2番目のいつもの席で。